・平安時代からこの地を守り続けている
・浪曲の舞台となった場所
神明神社 概要
名称 | 神明神社(しんめいじんじゃ) | 創建 | 平安時代(詳細不明) |
主祭神 | 天照大神、菅原道真公 | ||
境内社/摂社・末社 | 不明(五社) | ||
主なご利益 | 厄除け、火除け | ||
所在地 | 京都府京都市下京区神明町 | ||
最寄りの公共交通機関 | 京都市営地下鉄 四条駅 / 阪急電車 京都線 烏丸駅 → 2〜5分(出口によります。) 京都市営バス 四条烏丸 → 2〜5分 |
京都のメイン通りの一本南
京都一番の商業地、四条烏丸-四条河原町。この通りの一本南の綾小路通沿いに小さな神社があります。神明神社です。西行き一方通行の通りですが、昔から四条通りの抜け道として使う人やタクシーが多く通る上、一時停車をしている商用車も多いため、この辺りは朝から晩まで混雑しているイメージがあります。
まずは正面から。鳥居に隠れて居ますが、門の左側に「文子天満宮」と書かれた木札が貼られています。社殿前と鳥居横に札が建てられていますが、京都市設置のいつもの駒札は鳥居の横に建てられたもの。
神明神社 鳥居の中へ。
鳥居を潜ると右手に手水舎があります。普通の蛇口の手水舎ですが、下にはちゃんと「洗心」と書かれた手水鉢が置かれています。神社の手水舎で蛇口と言うのは、逆に斬新で清潔な気がします。
当地は平安時代末期、近衛天皇がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通の屋敷跡で、「四条内裏」または「四条東洞院内裡」と呼ばれた、この邸内にあった鎮守の社が神明神社である。
(中略)
その後、天台宗の護国山立願寺円光院という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、それ以来、神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎神明」とも呼ばれた。また、当社には豊園(ほうえん)小学校内(現在の洛央小学校)に祀られている文子天満宮の祭神が戦後、合祀されている。
出典:wikipedia-神明神社(京都市下京区)
平安時代からこの地にあるというこの神明神社。歴史の古さだけではなく、町内により管理されていることなどから、以下に大切に扱われてきたか?がわかります。また、入り口に「文子天満宮」と書かれた木札が貼り付けられていたのは、合祀されたからだということがわかります。
この神明神社は榎とは縁が深いわけですが、社殿を囲う柵と屋根の鬼瓦と軒瓦に桜が描かれていました。社紋かなぁ?と思いながら拝見。
社殿の前には謡曲「鵺(ぬえ)」と神明神社の関係が説明されていました。そして、それにまつわるやじりの写真が、拝所の中に掲げられていました。
社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせた。弓の名手であったという源頼政は退治の命を受け、当社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」2本が宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。
この謡曲史跡保存会の駒札は、泉涌寺の舎利殿や金札宮、貴船神社、北野天満宮横の観音寺など、多くの寺社で見かけられます。
拝所と本殿の間に、西向きに五社が祀られていますが、こちらに関しては詳細がわかりませんでした。由緒略記にも記載が見当たらないため、詳細は誰もわからないのかもしれません。
境内は狭く、また社殿は柵で囲まれているために、あまりゆっくりとお詣りするという雰囲気ではありませんが、何度訪れてもしっかり手入れされている感じがする、神明神社です。
神明神社(京都市下京区)の御朱印
神明神社は無人の神社ですが、由緒略記と御朱印が用意されています。御朱印は以前は志納でしたが、現在はお賽銭箱に300円を入れてください、と書かれています。金額を明記されている方が迷わずに済むので助かります。また、参拝日は各自で書いてください、とも書かれていて、御朱印は日付が空白の状態で置かれています。
隣に置かれている由緒略記は無料で頂けますが、用意したり補充したり…維持するのも大変なことだなぁ、と。神明神社を守る方々の御好意に感謝です。
実は最初に訪れた時、御朱印が全部貰われて空の状態でした。街中なので、気軽に訪れる人が多いのかもしれません。「あぁ、またお詣りしなさいということだな…」と思い、再訪させて頂き、御朱印をいただくことが出来ました。
一本北の四条通りには大丸百貨店があり、一本南の通りには佛光寺、更に二本南の通りには因幡薬師(平等寺)があるこの辺り。街中でビジネス街で呉服屋街です。
2000年代始めの頃は半分近く民家だった印象があるのですが、小洒落たお店や宿泊施設ばかりになってきました。徒歩3分ほどの所に住んで居た私としては、昔の面影がどんどん減りつつある風景に、少し戸惑いを覚えます。
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