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方広寺 <2021年京の冬の旅> 京の大仏と豊臣家の滅亡と

方広寺 概要

名称 方広寺(ほうこうじ) 創建 文禄4(1595)年
御本尊 盧舎那仏 脇侍/安置仏 眉間籠り仏 大黒天 不動明王 如意輪観音他
開基 豊臣秀吉 宗派 天台宗
札所
所在地 京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
最寄りの公共交通機関 京阪電気鉄道 京阪本線 七条駅 → 徒歩約10分
京都市営バス 東山七条 → 徒歩約3〜5分
拝観時間等 拝観料(通常) 境内無料
2021年 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 (要予約)
開催期間
拝観受付時間
(要予約)
2021年3月1日(月)~4月11日(日)
10時~16時半
(受付終了16時)
拝観料 大人 700円
小学生300円

方広寺 周辺の石垣から既に見所。

京都市東山区にある方広寺。方広寺はお隣に豊臣秀吉公を祭神とする豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂や智積院、法住寺に養源院など、京都の中でも観光できる場所がギュッと集まったとても場所にあります。京都国立博物館、豊国神社、方広寺は並んでいるのですが、その三箇所に共通するのが大きな石を使った石垣。七条通と大和大路通の交差点からもう石垣と呼んで良いのかさえ迷うほどの大きさの石垣に沿って北上していくと、方広寺の入口があります。山門などがない為、どちらかというとお寺という雰囲気が少なめな入口。

方広寺 入口 20210303

方広寺 入口 20210303

方広寺 入口 20210303

方広寺 入口 20210303

この石垣は「京の大仏」の名残と言われる石垣。正確には石塁(せきるい)と呼ぶこの巨大な石を使った石垣は、国の史跡に指定されています。

国の史跡
方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔
石塁は方広寺旧境内を区切っていた石積みで、京都国立博物館西門から北に遺存している。(…中略…)1969年(昭和44年)に「方広寺石塁及び石塔」の名で国の史跡に指定。2014年(平成26年)に大仏殿跡が追加指定され、指定名称を現在のものに変更した。

出典:wikipedia-方広寺

この方広寺を創建したのは豊臣秀吉。派手好きと言われる秀吉公が奈良の大仏より大きな大仏を作ったと言われる方広寺。この石の大きさもその広大さを物語る一つの証拠です。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/216869

帰り際に撮った写真。交通標識の看板の高さとほぼ同じ大きさ。石垣に使われている石の大きさが伝わる写真かと思います。

方広寺 石塁 20210303

方広寺 石塁 20210303

方広寺 現在の本堂と境内の様子。

そんな本光寺の現在の様子。

方広寺 20210303

方広寺 20210303

左手に現在の本堂、右手に鐘楼、鐘楼の奥に手水ととてもシンプル。以前伺った時は鐘楼に海外からの観光客の方々が腰をかけていたりお隣の豊国神社との境辺りで話し込んでいたりと非常に賑やかな上に拝観可能かどうかわからず、外から御本尊を眺めて終了していた方広寺。今回は事前予約が必要な特別拝観。1時間ほど前でもweb予約は可能でした。特別拝観ということで本堂に上がらせていただき説明を聞きました。案内のままに玄関の左手に続く三間で聞いてきたことは以下の通り。

・最初に建てらた大仏は奈良の東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)だったが地震で倒壊、大仏殿は残った。
・倒壊した大仏に代わり善光寺如来を迎えたものの秀吉が病に伏し、善光寺如来の祟りだと戻された。
・その後再興しようとしたが造営中の大仏が融解し出火、大仏及び大仏殿焼失。
・大仏殿と銅製の大仏は慶長17年に完成したものの、寛文2年に地震で大破。
・大仏は寛文7年に木造で再建したが寛政10年に落雷により焼失。
・秀吉縁の地の愛知県の有志が肩から上の木造の大仏像(縮小したもの)と仮殿を造り、寄進したが昭和48年に焼失した。
・現在の御本尊は盧舎那仏でかつての10分の1のサイズ。
・玄関からすぐの部屋にあるのは眉間籠り仏、大仏の眉間に埋め込まれていた仏像。
・大仏殿の欄干に使われていたという龍は左甚五郎作と言われている。
・台座の一部が残されている。
・神龍図は明治大正の画家吉川霊華の作。元々は大黒天堂の上に描かれていたものを保存のために現在の形の軸装にした。

ちょっとわかりにくかったのでwikipediaの京の大仏を参考にまとめてみました。

初代 秀吉 1595年〜1596年 木製金漆塗坐像 開眼前に地震で倒壊
未完成 秀頼 ?年〜1602(1604)年 銅製金張坐像 完成前仏像が融解して出火
2代目 秀頼 1612年〜1662年 銅製 地震で小破
3代目  ー 1662(?)年〜1798年 木製胸像 落雷で焼失
4代目 愛知県の有志 1843年(?)〜1973年 木製胸像 失火で焼失
一通りの案内を聞いた後、玄関右手の大黒天堂へ移動。
・手前にある大きな大黒天は御前立で、そっくりに作られている。奥の小さな大黒天が秀吉が護持したもので最澄が彫ったと言われる。
・一般的に今の大黒天は笑顔で財産や商売繁盛などのイメージがあるが、元々は戦闘の神様のシヴァ神と言われるため、厳しめのお顔になっているのではないかと考えられる。
・厨子の中の仏像は如意輪観音。

大黒天像は御前立ではなく、最澄が彫ったものを気に入った秀吉が小さなものを作らせて護持していたと聞いていたのですが、今回の説明では御前立だと…この辺りの話は古過ぎて調べようがないのでしょうか?諸説あり、というところですね。他に不動明王や鬼子母神像などが祀られていた記憶があります(そろそろ忘れかけです)。

方広寺 手水 20210303

方広寺 手水 20210303

奥に見える駐車場辺りが、昭和48年まで最後の大仏(上半身のみ)様がいらっしゃた場所だそう。現地では写真はありませんでしたが、京都市消防局のサイトで焼けた直後の大仏様の写真を見つけました。

方広寺 大坂の陣のきっかけが残る梵鐘

大黒天堂の後、外に出て重要文化財に指定されている梵鐘の真下で説明を聞きました。

方広寺 鐘楼 20210303

方広寺 鐘楼 20210303

・方広寺の梵鐘は日本三大梵鐘(奈良の東大寺・除夜の鐘を大勢の僧侶が突くことで知られる知恩院と方広寺)の一つで重さ82.7トン。
・天井画は伏見城で女性が化粧をする部屋に使われていたものと言われる。方広寺に来た経緯は不明。
・撞座の左上には有名な「国家安康」「君臣豊楽」の文字がある。家康の名前を分断し豊臣が君主であるかのように書かれていると豊臣家と徳川家の争いの火種となり大坂の陣のキッカケと言われている。ほかの文章は至って平和な内容が書かれている。ここから大坂の陣が始まったと言われている。
・昔はこの梵鐘は地面に直置きされていて、その当時の写真も残されている。
・鐘楼の砂利の上に置かれているのは大仏殿の遺構で柱に使われていた木を纏めていたと言われる金輪、大仏の銅製蓮肉片や蓮弁など。

その他、この鐘をどうやって吊るしたのか?などのお話もさせていただきましたが、全てガイドさんと私の想像の話でしかないため、割愛です。

方広寺 梵鐘 20210303

方広寺 梵鐘 20210303

方広寺 梵鐘 20210303

方広寺 梵鐘 20210303

現地で見せていただいた写真とは異なりますが、大学共同利用機構 国際日本文化研究センターのデータベースに当時の写真が掲載されており、梵鐘が地面に置かれている様子が伺えます。大仏方広寺 大仏のある方広寺

梵鐘よりも天井画の方が気になった私。伏見城に使われていたものが雨がかかりにくい天井とは言え、野ざらしに近い状態で保管していていいものかどうか?塗り直しとかはされていないのか?などなど聞いてみたものの、詳細はわからないとのこと。伏見城の遺跡はあちこちで見かけますが、どの時代の伏見城からどんなルートを経て何故ここに来たのか?を知る人はもういないのでしょうか?

方広寺 梵鐘と鐘楼の天井 20210303

方広寺 梵鐘と鐘楼の天井 20210303

方広寺 御朱印2種

さて。境内に用意された授与所でいただいた御朱印。今回は3種用意されている内の2点をいただいてまいりました。基本の書き置きで用意されていた廣福殿の金字バージョンと直書きの大黒天のもの。方広寺の御朱印帳を持っている(購入した)方は、盧舎那仏を直書きでいただけるとのことでした。廣福殿の金地のものにはクリアファイルも付いていました。

方広寺 御朱印 20210303

方広寺 御朱印 20210303

※御朱印は変更される可能性があります。

方広寺から大仏殿跡緑地へ。

方広寺での拝観を終えた後、鐘楼で伺った大仏殿跡緑地へ。隣接しているため、移動時間は1分程度。豊国神社や京都国立博物館の裏側にあたるこの場所は民家にも隣接しており、とても静かな空間でした。

方広寺 大仏殿跡緑地入口 20210317

方広寺 大仏殿跡緑地入口 20210317

この地は豊国神社の東隣にあたります。発掘調査によって大仏殿の基壇に相当していたことがわかり,大仏殿跡の台座などが見つかりました。

大仏殿跡の遺構は地下に保存され,調査地点は緑地公園となっています。

出典:フィールドミュージアム京都 都市史19 大仏殿

方広寺 大仏殿跡緑地 20210317

方広寺 大仏殿跡緑地 20210317

方広寺 大仏殿跡緑地 20210303

方広寺 大仏殿跡緑地 20210303

方広寺 大仏殿跡緑地 20210303

方広寺 大仏殿跡緑地 20210303

ユキヤナギや水仙が咲いていた大仏殿跡緑地。かつて大仏殿の基壇があったこの地が今は静かで緑豊かな公園として整備されているのも、大仏さまのご利益なのかもしれない…と思うほど、静かな空間でした。

この公園から見えているのは方広寺の隣にある豊国神社、豊臣秀吉公を神として祀る神社です。常時数種類の御朱印を用意されています。

豊国神社 神様になった秀吉公と豪華な唐門と。
京都市東山区にある豊国神社。名前の通り、豊臣秀吉公を主祭神とする神社です。秀吉公と言えば天下統一を成し遂げた超有名な人物。この豊国神社がある一帯は、秀吉公が立てた「京の大仏」の跡地というとても縁が深い場所です。過去の写真・御朱印と2021年の写真・御朱印を掲載。※今は授与できない御朱印も掲載しています。

秀吉さんが眠る豊国廟へも徒歩圏内。豊国廟は豊国神社の境外社、桜・紅葉の名所です。秀吉さんが眠っているのは山の上になるので、スニーカーで出向くのが安全です。季節ごとの御朱印を用意されているので、御朱印を集めていらっしゃる方にはオススメ。

豊国廟 豊国神社境外地 秀吉公が眠る阿弥陀ヶ峰へ。
実は以前、go※※leのルート案内で全く違う道を案内されたことがあり、参拝しそびれていた豊国廟。階段数のこともあり、足が向かないままでした。流れてきたtweetを見て、覚悟を決めて伺って参りました。限定御朱印は、秀吉公の祥月の8月と旧暦に合わせた9月だけ限定の御朱印です。【2021年3月17日再訪、御朱印追加しています。】

豊国神社が廃絶されて居た間も秀吉公を祀り続けて居た新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、豊国廟への道中にあります。

新日吉神宮(いまひえじんぐう) 東山七条で静かに秀吉公を祀り続けた神社
寺社がギュッと集まった東山七条にある、新日吉神宮(いまひえじんぐう)。人気観光エリアですが、阿弥陀ヶ峰の麓は観光する人も少なく、ゆっくりとお詣りすることができました。境内社の御朱印まで揃えられているので、御朱印好きさんにもおすすめです。

大仏様の正面だから、正面通

特別拝観からの帰りは正面通を東へ向かい、正面橋を渡りました。

正面通(しょうめんどおり)は京都市の東西の通りの一つ。(中略)正面通の名称は、方広寺の大仏の正面につながる通りであることに由来する。

出典:wikipedia-正面通

方広寺の大仏の正面から名を取った正面通も現在ではどちらかというと方広寺よりも豊国神社の正面、という印象。民家の目の前にある巨大な耳塚や甘春堂本店の前を通り、正面橋へ。正面橋の袂にある甘春堂さんの大仏餅。注文後に奥でカシャンカシャンと音がしていたので、その場で小包装してくださっているんじゃないかと思います。1個¥120-という価格もですが柔らかさが絶妙でオススメ。入れてくださる紙袋も大仏様がいた頃はこんな感じだったんだろうなぁ…と思わされる絵柄でオススメのお土産です。

甘春堂 大仏餅 20210317

甘春堂 大仏餅 20210317

甘春堂さんの大仏餅はネット販売されています。詳細は公式サイトから。和菓子作り体験教室も行われているので、観光の計画の際にはぜひチェックを。

鴨川 正面橋 20210303

鴨川 正面橋 20210303

大仏様が京都から消えて2021年で48年と半世紀ほど経つのですが、今でもあちこちに名残を残す、京の大仏と方広寺。もし万が一、また京都に大仏様を立てるのならば、ぜひ方広寺に立ててもらいたいと思う参拝でした。

2021年現在、京都で一番大きな仏像は轉法輪寺さんでしょうか?轉法輪寺さんの大仏さま、美しくて好きです。

轉法輪寺 関通さんの京都教区浄土宗寺院特別大公開。
京都市右京区にある轉法輪寺(てんぽうりんじ)。竜宮門形式の鐘楼門と御室大仏で知られるお寺です。開基の関通上人にちなみ関通さんとも呼ばれています。基本的には非公開の轉法輪寺ですが、令和元年度 京都教区浄土宗寺院特別大公開で1ヶ月以上の長期間公開されていました。令和4年度 京都教区浄土宗寺院特別大公開にも伺ってまいりました。

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