・京洛八社集印めぐり/洛陽天満宮二十五社の一つ
・天神信仰発祥の神社
文子天満宮 概要
名称 | 文子天満宮 (あやこてんまんぐう) |
創建 | 天慶5(942)年 |
主祭神 | 菅原道真公 | ||
相殿 | 多治比文子(菅原道真乳母) 伴氏(ともうじ(菅原道真御母君)) 是善公(これよし(菅原道真御父君)) |
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境内社/摂社・末社 | 文子殿 白瀧稲荷大明神 白太夫社 老松社 福部社 火之御子社 |
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主なご利益 | 学業成就、縁結び、その他 | ||
所在地 | 京都市下京区間ノ町通花屋町下る天神町400 | ||
最寄りの公共交通機関 | 京都市営地下鉄 五条駅 → 徒歩約6分 JR/京都市営地下鉄 京都駅 → 徒歩約12分 |
文子天満宮 初参拝
京都市下京区にある文子天満宮。神社仏閣が多いと言われる京都でも(実際多いのですが)有人無人・参拝可否等考えると、御朱印をいただける+交通の便のいい神社仏閣というのは非常に限られていると感じています。そんな京都市内の中、多くの人が利用するであろう京都駅から徒歩で伺えて且つ御朱印をいただくことができる神社が文子天満宮です。
伺った日は、夏越の大祓の茅の輪が設置されていた6月後半。茅の輪が設置されているのは6月中旬〜末日までのことが多いです。
鳥居の横にはしっかりと北野天満宮との繋がりが示されていて、文子天満宮に関する事前知識がなくとも、この石柱だけでその歴史の深さが一目瞭然です。
鳥居の右手にはいつもの駒札。
天満宮ということでちゃんと丑さんのお出迎えを受けました。文子天満宮さんの丑さんは阿吽ではなさそうですが、可愛らしく優しい感じ。
どこの丑さんも角が折れてしまっているのは、やっぱりその部分が細いからでしょうか?それとも実際の牛と同じように角切りをされているからでしょうか?詳細はわかりませんが、少し痛々しい印象を受けます。
文子天満宮 鳥居の中へ。
囲われた境内に入ると、すぐ左手に手水鉢。少量の水は出ていましたが、柄杓は置かれていませんでした。梅雨時+コロナ禍で使われている様子がないながらも清潔感のある手水鉢。よくある龍口ですが、小さな蛙が置かれていて愛らしい印象を受けます。
反対の右側には天神信仰発祥についての説明書き。境内には絵による神託の様子も描かれていましたが、歴史についてはこちらの方がわかりやすいでしょう。
そして正面。雨に濡れないように境内の大半が屋根に覆われているのが非常に嬉しい配慮です。わかりやすく学問の神様と書かれているのが本殿。本殿横の赤い建物は文子殿、こちらには菅原道真公と多治比文子が祀られています。写真には写っていませんが、左手に社務所があります。
天慶5年(942)道真公は、道真公の乳母(うば)をつとめていた多治比文子(たじひのあやこ)に、北野の右近の馬場(現在の北野天満宮の地)にまつってもらいたいと託宣(お告げ)され、文子は自分の家の庭に小さな祠 (ほこら)をもうけ、道真公を拝んでおりました。その後、天暦元年(947)6月9日に北野天満宮が創建されました。
菅原道真公の乳母である多治比文子が1000年以上前に祀り始めた菅原道真公。ここまで長く広く国内に広まるとは誰も思っていなかったのではないでしょうか?
そしてこの信仰を始めた多治比文子という女性、菅原道真公の乳母だということは記されていますが、本人に関する説明はなかなか見当たりません。
多治比文子
生年:生没年不詳
平安時代の巫女。奇子,綾子,あや子とも書く。北野天満宮の創祀者。平安京の右京七条二坊十三町の住民。天慶5(942)年に天神(菅原道真の神号)は文子に都の辺の右近馬場のある北野に社殿を構えて祭祀すべきと託宣した。しかし身分の低かった文子にはこれは容易ではなく,とりあえず自分の邸内に仮の叢祠を作り祭祀した。5年後の天暦1(947)年にようやく北野に移建した。同9年には近江(滋賀県)比良の神官良種の7歳の子にも託宣があったのを契機に,朝日寺の僧最珍(鎮)らと共に力を併せて霊祠を造営した。
色々不明ながらも文子天満宮が天神信仰の始まりであることには変わりありません。まずは本殿と文子殿へお詣り。
本殿の右手を奥に進むと、北野天満宮遥拝所と彫られた石柱と菅公腰掛石があります。腰掛石には実際に腰をかける人がいないように、という計らいでしょうか?五円玉が梅の形に置かれていました。
そして境内社へもお詣り。小さく可愛らしい多治比の文子像の後ろに三社大神(老松社 福部社 火之御子社)と白太夫社。
そして、御神木を挟んで白瀧稲荷大明神へお詣りし、今回の参拝は終了です。
文子天満宮でいただいた御朱印 3種類
今回文子天満宮で用意されていた御朱印は3種類、全て拝受してまいりました。全て書置での対応でしたが、日付はその場で入れていただくことができました。文子天満宮の公式ツイッターを見ていたら、丑年には丑の絵が印刷されたものが用意されていた模様。時々変更されているのだろうことが伺えます。一緒にいただいた手作りの縁起も一枚に綺麗にまとめられており、読み応えのあるものでした。
文子天満宮さんは京洛八社集印めぐりにも参加されているので、文子天満宮さんで色紙をいただきスタートし、烏丸通を北上するのもオススメです。
コロナ禍以前には占いや全国文子会などの活動もされていた文子天満宮さん。小祠から始まったという文子天満宮。多治比文子に始まり日本全国に広まり時代を超えて大きな信仰を集め続けるまで続くには、菅原道真だけではなく多治比文子の強い思いもあるのだろうと思うと、感慨深いものがあります。
文子天満宮への参拝の後は、東本願寺さんの飛地庭園の枳殻邸(渉成園)さんを散策するのもオススメです。
そのまま京都市営バスの河原町正面か七条河原町のバス停へ向かい、四条河原町か京都駅から次の目的地へ向かうことも可能です。
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