・京都御所からすぐ、河原町通からもすぐという立地の良さ。
・本堂はお寺にしては珍しい流造(ながれづくり)。
護浄院 概要
名称 | 護浄院 (ごじょういん) |
正式名称 | 常施無畏寺護淨院 (じょうせむいじごじょういん) |
通称 | 清荒神/荒神さん (きよしこうじん/こうじんさん) |
御本尊 | 清三宝大荒神尊 |
開基 | 開成皇子 | 宗派 | 天台宗 |
札所 | 洛陽三十三所観音霊場 第三番 京都七福神巡り (恵比寿) 京の七福神巡り (福禄寿) 巡礼通称寺 |
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所在地 | 京都市上京区荒神口通寺町東入荒神町122 | ||
最寄りの公共交通機関 | 京都市営バス/京都バス 府立医大病院前バス停 → 徒歩約5分 京阪電車 出町柳/神宮丸太町駅 → 徒歩約13分 |
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拝観時間等 | 8:00〜16:00 夏季:8:00〜17:00 |
拝観料(通常) | 無料 |
定規筋に囲まれた護浄院(清荒神)へ。
京都市上京区の清荒神(きよしこうじん)という別名で知られる護浄院。護浄院は京都御所の寺町御門を少し北上した、寺町通と河原町通の真ん中に位置しています。護浄院の周辺では、バス停の荒神口や鴨川に懸かる荒神橋、護浄院の前の通りの名前や町名など、護浄院の別名の清荒神の「荒神」という名があちこちで使われており、影響力の大きさを伺い知ることができます。
護浄院の門前。御所のすぐ近くということだけでなく、護浄院の周りを囲う筋壁に引かれた五本の線が、皇室とのつながりを伺わせています。事実、寺伝には天皇や皇子の名や勅願所であった旨が記載されているようです。
寺伝によれば、宝亀3年(772年)に光仁天皇の子の開成皇子が摂津国勝尾山で修行中に荒神が出現し、開成は自らその荒神を模刻するとその場に三宝荒神尊として堂宇を建て、祀ったのが始まりである。
明徳元年(1390年)に後小松天皇の命で乗厳律師が京都の高辻堀川の東に遷座する。慶長5年(1600年)に後陽成天皇の命で現在地に遷座し、常施無畏寺(通称は常施寺)の名を賜っている。元禄7年(1694年)、御所の浄域を護るということから東山天皇から護浄院の名を賜る。
出典:wikipedia-護浄院–
清荒神(護浄院) 境内の様子
清荒神(護浄院)の敷地の北側にあたる山門から境内へ。東側に諸尊堂が建てられており、洛陽三十三所観音霊場巡礼の札所本尊の准胝観音菩薩や不動明王、大聖歓喜天、福徳恵美寿神などが祀られています。
パッと見た感じでは一つの建物に見える諸尊堂。そんなに近くに近付ける状態ではなかったので、中の様子はわかりませんでした。
諸尊堂の前には道祖神。ホタルブクロに囲まれたこの日、非常に穏やかな雰囲気。
諸尊堂の前には、光格天皇の御胞衣塚も。寺町界隈では光格天皇の名を良く見かける気がします。光格天皇が仮御所とした聖護院も護浄院からは徒歩圏内です。
清荒神(護浄院) 鳥居に守られた本堂。
清荒神(護浄院)の本堂。鳥居の奥に流造の本堂。お寺の境内で鎮守社の鳥居はよく見かけますが、本堂の前に鳥居が建てられているのはなかなか珍しいのでは?と思います。そして、本堂の建築構造もどちらかというと神社によくある流造。反射的に二礼・二拍しそうになります。流造のまま現在に残っている理由を神仏習合やら荒神様であることやら色々考えたのですが、私の力不足で理由は推測することさえ出来ませんでした。
勅願所ということで天皇家の安泰などを祈られて来た場所であることは当然なのですが、一般の私たちには火の守護神としてのご利益をいただけるそう。
清荒神(護浄院)でいただいた御朱印。
清荒神(護浄院)でいただいた御朱印。1度目に伺った時、開門していたものの時間的には遅がけの時間だったため、何度か声をかけさせて頂いたもののどなたも出てこられず…。10分程待ちましたが諦めました。2度目に伺った際に洛陽三十三観音巡礼の御朱印を頂いてまいりました。御本尊の清荒神の御朱印もあるのでは…?と思いますが、御朱印の種類などは張り出されていませんでした。
2020年2月5日。再訪して御本尊の御朱印を頂いてまいりました。
※御朱印は変更される可能性があります。
授与所の上にはとても大きな火箸。御朱印をいただく間に眺めて見てください。
鳥居の奥の流造という不思議空間ながらも、通りの名前やバス停の名前にもなるほど地元の人たちには親しまれている清荒神。このまま不思議なままずっと残ってほしいお寺です。
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