本光寺 概要
名称 | 本光寺(ほんこうじ) | 山号 | 実相山 |
御本尊 | 三宝尊(題目宝塔、釈迦如来、多宝如来) | 霊像/仏像 | 日蓮聖人像/日雄聖人像/子安鬼子母神像/十羅刹女像/妙見菩薩像 ほか |
開基 | 真光坊(しんこうぼう) | 宗派 | 日蓮宗 |
所在地 | 京都市下京区油小路通木津屋橋上ル油小路281 | ||
最寄りの公共交通機関 | JR京都駅中央口 → 約8分 京都市営バス 下京区総合庁舎前バス停 →約4分 |
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拝観時間等 | 8:00〜17:00 | 拝観料 | 150円(団体1人100円) |
2018年6月18日に関西を襲った大阪府北部地震後に流れてきた、本光寺のtweet。
地震が続いてますね。
今朝の蓮です。
力いっぱい咲いてくれるその姿に元気と安らぎをもらっています(^^) pic.twitter.com/EUSNi2JY6O— 本光寺【京都油小路】 (@honkouji_kyoto) 2018年6月19日
この蓮の画像にとても癒された私。京都駅周辺に向かうタイミングで、本光寺へと参拝してまいりました。
街中に溶け込む本光寺へ
京都市下京区。京都駅近くの街中、病院と民家の間に本光寺の山門があります。京都らしい間口の狭さと少し奥まった山門です。
そんな、見落としてしまいそうな条件が揃っているかのように思う本光寺の山門ですが、門の前には京都市の駒札と石碑、門には本光寺からのお知らせが張り出されているので、見落としてしまうことは少ないと思います。(開門等の情報は2018年7月時点のものです。)
本光寺の山門の駒札から考える。
山門に設置された京都市の駒札。お寺の前に建っていますが、お寺の説明ではありません。
石碑にも書かれているように、ここは伊東甲子太郎(いとう かしたろう)外数名殉難の地。そのため門前の駒札ではありますが、書かれている内容は「伊東甲子太郎外数名殉難の地」についての説明となっています。
本光寺がある京都駅周辺は、
・新撰組の屯所があった西本願寺
・新選組最後の洛中屋敷跡の碑
・まぼろしの屯所と書かれた提灯を掲げる不動堂明王院
・不動堂村屯所跡
など、京都の中でも新撰組の名残を感じられる場所の1つ(下の地図上の星マークのところ)。
且つ、本光寺は、不動堂村屯所跡と新選組屯所跡の西本願寺太鼓楼との間にあるという、新撰組の庭と言っても過言ではない立地条件にあるお寺です。
この地で新撰組による暗殺が行われたとしても、何の不思議もない場所です。
油小路の変とは…?
本光寺の前に掲げられた駒札にも書かれている、油小路(あぶらのこうじ)の変。教科書などに載っているような大きな扱いをされている事件ではありません。
油小路事件(あぶらのこうじじけん)は、江戸時代末期(幕末)に起きた新選組と御陵衛士の抗争事件。新選組最後の内部抗争にあたる。御陵衛士の伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が殺害された。
(…中略…)
慶応3年3月10日(1867年4月14日)、新選組を離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成した伊東甲子太郎が、勤王倒幕運動に勤しみ薩摩藩と通謀して新選組局長・近藤勇を暗殺しようと企んでいることを、新選組が間諜として潜り込ませていた斎藤一から聞き明らかとなった。
ただし、当時の伊東の書簡は対話を重んじるものばかりで、伊東自身も人を斬った記録が油小路事件以外にはなく、さらには近藤勇を暗殺しようとしたものがないため、近藤暗殺計画自体が存在しなかったとの説もある。
御陵衛士が江戸幕府と敵対していた長州藩に対して寛大な処分を主張する建白書を提出したことが、長州厳罰論を説く近藤勇を激怒させ、油小路事件につながったものといわれている。
(…中略…)
同年11月18日(12月13日)、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、帰路に新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って伊東を暗殺した。伊東は深手であったが一太刀敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで、本光寺前で絶命したという。
出典:wikipedia-油小路事件
伊東 甲子太郎(いとう かしたろう、天保5年12月3日(1835年1月1日) – 慶応3年11月18日(1867年12月13日))は、新選組参謀及び文学師範、のち御陵衛士(高台寺党)盟主。
(…中略…)
近江屋事件から3日後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。享年33。
伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警戒したためと思料される。伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す囮として使われた。後に収容に来た御陵衛士たちは待ち伏せていた新選組と戦闘となり、藤堂らが戦死している。
出典:wikipedia-伊東甲子太郎–
もともとは新撰組の一人だった、伊東甲子太郎。7人を連れて新撰組に入り、倍以上の15人を引き連れて脱退したことが近藤勇の逆鱗に触れたのか、近藤勇の暗殺を企んでいたのか、長州藩に対して寛大な処分を主張したことが原因なのかはわかりません。
それよりも何よりも、近藤の妾宅、というところが気になって仕方がないのですが、その場所までは詳しくはわかりませんでした。
本光寺の境内の様子。
山門をくぐるとすぐに、油小路の変で襲われた伊東甲子太郎がよりかかり絶命したと言われる、題目石塔がありました。こちらにもしっかり「伊東甲子太郎絶命の跡」という石碑があります。
この戒光寺御陵衛士墓所、お詣りすることができます(必ず事前にお問い合わせください)。
本光寺境内の題目石塔の斜め前にはお地蔵様と鎮守社。どちらの神様がお守りになっているのかまでは、わかりませんでした。
山門正面には一般の方のものと思われるお墓があり、立ち入りが制限されていました。そして、その横が本堂の入り口。私が癒された蓮はこの日は残念ながら咲いておらず…。
入り口横には、アニメのスタンプラリー用のスタンプが置かれていました(スタンプラリーは終了しています)。
中に入ると、玄関土間の横で、尼僧さんが一生懸命御首題を書かれていました。お願いをして本堂へお詣りをさせて頂き、本光寺をあとにしました。
本光寺 限定御朱印
伺った日は子安鬼子母神様の結縁日だった為、書き置きの限定御朱印のみの扱いでした。尼僧さんが「今日は書き置きのみなんです」と、申し訳なさそうに伝えてくださいましたが、一覧の中から一言言葉を書き入れてくださる、とのことで、「心願成就」を選んで書いて頂きました。入った時に書かれていた御首題は事前に予約されていたものだそうで、この日、私は直書きしていただくことは出来ませんでした。
尼寺は初めてかもしれない…と思いながら後にした、本光寺。
どうしても油小路の変の地として注目されてしまいがちですが、慶長時代からの流れを汲んだお寺でもあります。その辺りの略記に関しては、頂いたパンフレットにしっかりと記載されていました。
本光寺 2021年再訪
京都駅周辺で予定があった3/31、少し家を早く出て、本光寺さんに伺ってまいりました。本光寺さんに伺うのは久々。今回は年度末で平日ということもあり、貸切でした。
【お知らせとお願い】
伊東甲子太郎絶命の題目石塔の覆屋を建立致しました。
本来は先に皆さんにお知らせとお願いをして着工するはずでございましたが
・石塔の劣化が進んでいた事
・先日の地震で石塔後ろのブロック壁がずれていた事
・万が一ブロック壁が倒れた場合石塔への被害を防げ無い事⇒ pic.twitter.com/BfzsoLQcDW— 本光寺【京都油小路】 (@honkouji_kyoto) July 31, 2018
前回伺ったのが2018年7月8日。月末にはこの建屋が建てられていたのですが、いまだに綺麗な状態。
本光寺 桜の御首題と妙法の御朱印
本光寺さんは常に多くの御朱印・御首題を用意してくださっているのですが、数ある中から選んだのは桜の御首題。見開きですが、その場で書いていただくことができました。書置も用意されているので、時間がない方でも安心です。
そしてもう一つ「妙法」の御朱印も。春が早かった2021年を表すように、桜の花びらが散らされています。この「妙法」の文字、水色のラメでとても綺麗です。
貸切だったので、書いていただいている間に奥に上がらせていただき、繭で作られたおみくじをいただいたり伊藤甲子太郎の塗り絵絵葉書を見たり…。ゆっくりした時間を過ごさせていただきました。
本光寺の公式な情報はTwitterかインスタグラムから。御朱印の情報などもしっかり発信されています。
本光寺の公式twitterを見ていると、季節によって添える印に使う花の種類を変えられていたり、参拝する毎に御首題に添えていただける法華経の一節を変えていただけたり…と、何度も御首題を頂きたくなる情報が掲載されていました。
おまけ。
本光寺近くの西川油店さんの店先で見かけた、虫籠窓(むしごまど)を挟む二対の鍾馗さん。町家の風情が色濃く残る店舗は、京都らしい!の一言に尽きると思います。
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